若月俊一先生の夢、中川米造先生の夢

今年1月から佐久総合病院の夏川周介名誉院長が、日本農業新聞で「協同の系譜  若月俊一 =農村医学の父=」と題した連載を始めた。
若月名誉総長が、どのようにして「農民とともに」医療を信州の山間の町や村に定着させてきたか、直弟子の目を通してつづっている。
先人が医療に懸けた夢を継承するには「記録」を残しておくことが大切だと感じる。

若月先生は、晩年、本欄で前回紹介したフィリピン大学医学部レイテ分校(SHS)の医療者養成に「次世代への夢」を託していた(前回記事:「心の中に刻まれた恩」)。
https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202302/578711.html
SHSが先生の「農村医科大学構想」をモデルに構想された背景もあるが、一兵卒としての従軍経験のある先生にとって、太平洋戦争の激戦地であったレイテ島は特別な存在
だった。

先生はアジアのノーベル賞といわれるラモン・マグサイサイ賞を受賞し、1976年夏にマニラを訪問した際、できたばかりのSHSに向かおうとした。
あいにくの雨模様で天候が悪く、プロペラ機での移動はできず、断念したようだが、齢を重ねて診療から離れた後も、先生はSHSの行く末を気にしていた。

というのも、SHSの医療人材育成事業は、地域と密着した泥臭いもので、エリート集団のフィリピン大学医学部の中枢とは肌合いが異なっていた。
事業の運営面でもマニラの医学部本校(東大医学部に相当)とレイテ島の現場との意見が合わず、あわや頓挫しかけたこともあった。

レイテ島での研修と奨学金システム創設の提案

1980年代、私がSHSを訪ねた際、大学医学部の先輩で大阪大学教授だった中川米造先生の名前を耳にして、少し驚いた。
91年に中川教授が佐久の農村保健研修センターで講義をなさったとき、そのことをお話しすると、
「私はSHSの様子を医学教育学会に伝えたり、自治医科大学のカリキュラムに生かせないかと提案したりしているんだよ」とおっしゃった。

若月先生と親しい中川教授は、SHSに託した夢を何とか実現したいと考えておられた。
人と人のご縁は不思議だ。
95年晩秋、東京・御茶ノ水で中川教授と再会した。
ちょうど佐久の奥山の村診療所に家族で赴任する前だった。教授は言った。

「君は年に100人ぐらい医学生や看護学生を村に集めて研修したりするんだろう。そこでお願いがある。村に来た若者の1割でもいいから、レイテ島に送れないだろうか」

「はい。実は、私も同じことを考えていたんです。地域保健と国際保健に関心を持つ行動派の医学生や研修医を彼らの自主性に任せ“医学生自治” “研修医自治”で派遣できればと考えています」と私は答えた。

「恐らく、求道型、キャリア重視型、異性との出会い希望型、いろんな若者が来るだろう。キャリア重視で、実践を軽んじる者が多くなると、地域の人たちとともに保健医療を築くSHSの精神が誤って伝わる恐れがある。気をつけたほうがいい。
ところで、SHSを支えて、フィリピン各地から学生を集め続けるには奨学金システムを作る必要がある。
以前、君も言っていたようにカントリーリスクの高さは金利の高さに直結している。
12%の金利を利用して元本には手をつけず、金利で奨学金を運用する方法を考えてはどうだろう。見ている人は見ているよ」

「全く同感です。ぜひ、医学生、看護学生のレイテ派遣と、金利での奨学金システムを確立したいと思います」
と私は言って、中川教授と別れた。

先人の積み重ねがもたらしたもの2年後の97年、マニラの財団理事長のカマラ氏の協力で、日本の篤志家に出資していただいた資金をフィリピンに送り、複数の基金を立ち上げて金利で運用するめどが立った。
若月先生と、「ネパールの赤ひげ」と呼ばれた岩村昇先生も、陰に陽にSHSをサポートしてくださった。
「いい感じ」にできたなと思っていた矢先、中川教授は逝去された。
享年71。まだまだご指導いただきたかった。
ただ、中川先生のSHS事業に託した夢は、様々な方に受け継がれている。

例えば、ハンセン病回復者で作家の伊波敏男氏は、2002年、国から届いた「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金」1200万円を、そっくり寄付してくださった。
この補償金は、ハンセン病になった仲間たちが国の隔離政策は違法と主張し、国を相手とした裁判に勝ってもたらされたお金だった。

実は、伊波氏はずっと以前からハンセン病を隠さずに生きる道を選んでいた。

自分で「隔離は間違っている」と裁断し、ハンセン病患者だったことをカミングアウトして生きてきた。
だから隠さざるを得なかった、隠れざるを得なかった人々が主体の裁判の原告には加わらなかった。
いまさら司法の裁きで「救済」されるのは、これまでの人生を投げ捨てるようなものだ、と思い、補償金を受け取るか否か、逡巡していた。

そこにSHS出身のスマナ・バルア博士からフィリピンの農村の実情を聞かされ、伊波氏は補償金を送ってくださったのだった。
あれから20年、伊波基金はしっかり受け継がれている。

こうした先人の積み重ねが、現在、SHSに研修で訪れる日本人の若い医療者を、分校同窓会はじめ現地の人たちが大歓迎してくれるゆえんなのである。

2011年3月初旬、私が東宮御所にお招きうけた際、皇太子殿下(現天皇陛下)も「侍従から詳細を聞いています」と、日本からの「有効な人材育成支援」に関心をお持ちだった。

(佐久病院 医師色平哲郎氏提供)