伊波敏男さんの講演録―戦争と人権 「沖縄の悲鳴が届いていますか?」を読んで 横田雄一
弁護士の横田雄一先生から、伊波敏男の講演録を読んだ感想が届きましたので、掲載します。
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伊波さんが講演で提起されたことは、「Ⅰ はじめに」 「Ⅱ 私の人生課題」 「Ⅵ 最後のメッセージ」に凝縮されているように思われます。
「Ⅰ はじめに」
「戦後80年」という言い方による過去の歴史検証には限界ありというご指摘です。①検証対象の時期は太平洋戦争開始(1941⦅昭和16⦆年12月8日)からではなく、1931(昭和6)年9月18日の柳条湖事件(満州事変)、日中戦争、太平洋戦争、戦後の91年とすべきであること ②検証の対象は近隣アジア諸国の人々を含め2000万人の犠牲者に思いを込めた加害の歴史が欠かせないこと、
以上を踏まえて伊波さんは「2025年から振り返る、太平洋戦争の真の『戦後』とは、被害だけでなく、加害の歴史を含めた『戦後91年』が、正しい歴史表現ではないか」と指摘されています。
この指摘は、まったく正しいと思われます。私は90年代の戦後補償裁判でフィリピンの性暴力被害女性らの損害賠償請求を担当しました。日本軍が3年間占領したフィリピンでは、日本軍将兵の戦死は15年戦争における中国での戦死と同じ50万人に達していますが、首都マニラにおける集団虐殺など住民に対する加害が顕著でした。にもかかわらず、戦後の日本の裁判所は救済しませんでした。
「Ⅱ 私の人生課題」
伊波敏男さんは、ハンセン病差別に屈せず生き抜いてこられた方です。今回の講演録はご自身の成長の歴史的外部的環境を語っておられます。琉球王朝~琉球処分~沖縄戦~戦後の米軍支配と打ち続く琉球・沖縄の歴史によって作られるとともに自らをその歴史の一部とされてこられたのでした。
首里にあった琉球王府は、文化的には中国大陸から帰化した士族に支えられていました。中国の冊封体制下、琉球王国は東アジアの貿易立国として栄えました。琉球王朝を支えた士族のなかに、中国大陸からの文化伝承を担った学者がいます(伊波さんの本家に著名な言語学者伊波普猷)。ヤマト学は疎んじられていました。
熊本の鎮台府の兵を動員して敢行された琉球処分により伊波さんの祖父は沖縄島北部の今帰仁(なきじん)に移りました。伊波さんは、沖縄島から遠く離れた南大東島で生を受け、沖縄戦で今帰仁に疎開、戦時ハンセン病に罹患。沖縄に同病の専門医がおらず治療を受けられませんでした。
戦後、伊波さんの父が、米軍民政府が招いたハンセン病専門医師の診察を14歳の伊波さんに受けさせたところ、直ちに発症が判明、そのとき医師は顔を紅潮させ、拳で机をドンドンと叩きながら、「沖縄の医師達は、この子にどんな診療をしたのだ。こんなに重篤になるまで痛みつけて!」と怒ったとのことです。
その怒声と机を叩くドンドンが私の耳にも聞こえるようでした。
伊波さんは、14歳で国立沖縄愛楽園に強制収容され、実名は消されました(園名関口進)。
翌年、川端康成さんが沖縄愛楽園に来られて、関口少年と会ったときの情景も極めて印象的です。川端さんは、関口少年が答えた北條民雄の「いのちの初夜」についての感想に感涙し、
ギョロっと大きく見開いた目で、私を見つめていた川端さんの両目に、シャボン玉のように涙が膨らみ、ポロ、ポロと落ちました。
そして、私の両太ももをパンパンと何度も叩き、「関口君、君は…君は…北條民雄の悲しさが分かっています。『いのちの初夜』を、しっかりと、読み込んでいます。関口君! 君ねー 自分の中に一杯 蓄えなさい。そして、たくさん書きなさい!」
この時も私の耳に川端さんが叩いたパンパンが聞こえるようでした。
講演録「Ⅴ 駐留米軍と人間の尊厳」の中のつぎの一節も、私の心を揺さぶりました。
特に「性被害事件」で、私の記憶に刻まれている衝撃的な事件は、
1955年の「6歳の由美子ちゃん事件」です。
高校生の姉が泣きながら、12歳の私に、事件報道の記事を読んでくれました。
6歳の少女は強姦後、殺害され、ゴミ捨て場に捨てられていました。
新聞記事の少年の目撃証言に、由美子ちゃんが「お母さーん、おかぁさーん」と、泣き叫んでいたとの記事には、私も泣きながら聞いていました
その泣き声は私の耳にも聞こえてきました。
伊波さんの文学的表現が人の心を打つものであることを改めて感じました。
「Ⅵ 最後のメッセージ」
講演の結びに、
シベリアで獄死したブルーノ・ヤセンスキーの言葉を贈ります。(ブルーノ・ヤセンスキー(1901-?『無関心の人びとの共謀』)
敵を恐れることはない 敵はせいぜい君を殺すだけだ
友を恐れることはない 友はせいぜい君を裏切るだけだ
無関心の人びとを恐れよ 彼らは殺しも裏切りもしない
だが、無関心の人びとの沈黙の同意があればこそ
地球上には裏切りと殺戮(さつりく)が存在するのだ。
82歳を迎えた私は、体力と知力が及ぶ限り、「戦争と人権」問題を語り続けます。
この国の未来が、「人と人が、寄り添い、再び戦争をしない国」に、したいとの、願いを込めたバトンを、皆様に託します。」
むすび 伊波さんの優しさと厳しさ
伊波さんの近著「ニライカナイへの往路」の文字は全部太字です。
私のような92歳の老人はどれだけ助かることか。
伊波さんの願いは、つぎの言葉に込められています。
私は夢見ている。
「私、かつてハンセン病を患いましてね」と、隣近所との茶飲み話の中で、何のわだかまりもなく話せる時代が来ることを……。 前掲書272頁
というものです。厳しい差別にさらされているハンセン病回復者の幸せが念頭から離れておられません。
伊波さんの厳しさはハンセン病差別との不退転の闘いであり、かつ沖縄の軍事的植民地からの解放に対する思いの強さです。
私たちとしては、伊波さんに学びつつともにハンセン病差別と沖縄差別と闘い続けることを自らに課したいと思います。