戦争と人権「沖縄の悲鳴が届いていますか?」

令和7年8月12日 東御市東部人権啓発センター 講演録

皆さん、こんにちは。東御市での私の講演会は今回で4回目となります。
これまでの3回の講演会のテーマは「ハンセン病問題」でした。特に、2回目の講演会は鮮烈な記憶として残っています。なぜなら、その年は平成23年、あの東日本大震災と原発事故が発生した年だったからです。

大震災の三か月後、私は気仙沼と陸前高田の被災地を訪れました。その5年後には、友人の助けを借りて飯舘村、南相馬市、浪江町、双葉町に入りました。至るところに山積みされた黒い放射能汚染土の収容袋、行き交うダンプカー、そして人の姿が消えた家並や集落。その光景に、この国の未来はどうなるのかという強い不安に襲われました。

あの講演会から14年を経て、今回のテーマは「戦争と人権」です。
それでは講演に先立ち、まず15分の映像をご覧いただきます。
―DVD『病み棄てのもどり道 私の夢』―

Ⅰ はじめに

2025年、「戦後80年」の言葉が飛び交っています。
太平洋戦争終結のこの用語は、わが国の「戦争被害」だけの時のめくり方です。
歴史の出来事には起点があり、終点があります。
太平洋戦争の歴史検証は、この戦争の発端までさかのぼり、「加害」と「被害」からも目を逸らさない。これこそが、真の「太平洋戦争の戦後」の歴史検証だと私は思います。
その視点に立てば、わが国の太平洋戦争は、昭和6年の満州事変にはじまり、昭和12年の盧溝橋事件から泥沼の日中戦争に突入し、そして、近隣アジア諸国への侵略と続き、その結果、2000万人を超える犠牲者にまで思いを至らせた、歴史検証でなければならないのではないでしょうか。
従って、2025年から振り返る、太平洋戦争の真の「戦後」とは、被害だけでなく加害の歴史を含めた「戦後91年」こそが、正しい歴史表現ではないかと私は思います。

Ⅱ 私の人生課題

(1)ハンセン病という烙印

私が生まれた沖縄の悲惨な沖縄戦。ヤンバルの山中を逃げ惑った家族、母の背中で生き延びた幼子は、戦中・戦後の混乱期にハンセン病というたぐい稀な病に感染、発症し、14歳から15年間、「らい予防法」によって、強制隔離生活を体験しました。
「人権」は、民主主義の基本理念です。そして、「人権」が大切に守られるのは、その国が「平和国家」であることが絶対条件です。
私の人生に「ハンセン病」という「烙印」による、重層的な「偏見と差別」を乗り超えなければならない、課題が立ちはだかっていました。
そのため、私の人生には、「平和」と「人権」を守る闘いが、生き方の座標軸となりました。
 一部で、病名を「らい」と表現しますが、1960年代まで、わが国でこの病名が使用されたことによります。

(2)ノーベル賞作家川端康成氏との出逢い/ 北條民雄

沖縄は戦争以前から、人口1万人当たりのハンセン病有病率が、
本土の4.41倍と、ハンセン病の濃密発生地でした。
 沖縄には沖縄愛楽園と宮古南静園の2カ所のハンセン病療養所があります。この二つの療養所は、アメリカ軍の空爆を受け、施設は壊滅状態となります。
愛楽園では,患者を総動員し、昼夜兼行で掘られた防空壕に913人が、南静園では、400人の患者たちは、自然洞窟に逃れ、生き延びます。銃爆撃の戦死者は数名でしたが、戦後の食糧不足、マラリア、赤痢、ジフテリアなどで、30%を超える患者が亡くなります。
当時、沖縄には、未収容患者600人がいると推定され、アメリカ軍民政府のらい対策は、困難を伴う緊急課題でした。
 しかし、沖縄戦を生き延びた医師は、たった60余名で、その上、らい専門医は一人もいませんでした。
私の体の異変は、小学5年生頃から、体中に激痛が走っていました。
民間病院の診断名は、「らい病」ではなく「小児神経症」で、現金払いの高額鎮痛剤と、電気治療まで行われました。
 昭和32年、アメリカ軍民政府は、らい問題打開のために、本土から4カ月限定で、らい専門医田尻いさむ医師を招きます。
田尻医師の診察が、5月1日から始まるとの新聞報道があり、父は、その初日に、私を田尻医師の診察を受けさせます。
私を触診した途端、田尻医師は顔を紅潮させ、拳で机をドンドンと叩きながら、
「沖縄の医師達は、この子にどんな診療をしたのだ。こんなに重篤になるまで痛みつけて!!」 

怒りの様子が収まり、
「お父さん、残念ですが、お子さんは、らい病を発症しています。明日、法律に従い隔離収容します」
 私が沖縄愛楽園に隔離収容されたのは、昭和32年14歳の春でした。入園と同時に、私の名前、伊波敏男は消され、「関口進」と変えられました。
収容されていた子供たちは、5歳の幼児から。中学3年生までの55人が、少年少女舎で共同生活をしていました。療養所では義務教育は、保障され、療養所内に小中学校がありました。
昭和33年6月2日、アメリカ軍政下の沖縄に、川端康成さんが文化講演会に来島され、新聞紙上では連日、報道されていました。
沖縄滞在日程説明の席で、川端さんから、突然、主催者を驚愕させるリクエストです.。
「らい療養所沖縄愛楽園を訪問したい。特に、子ども達に会いたい」。主催者側は、驚愕します。
何故なら、当時の沖縄の社会意識では、療養所があるヤガジ島の名を、耳にするだけで眉をしかめ、それどころか沖縄愛楽園は、人間が踏み込んではならない場所と、思い込んでいる人たちへの要望です。
 困り果てた主催者側は、協議の結果、ひとつの提案が示されました。
それは、入園中の一人の子どもと、会うという提案でした。
急遽、愛楽園の子どもたちの作文が、ホテルに届けられます。
 指名されたのが、「関口進」の私でした。
6月8日、学校の廊下が、騒がしくなりました。
校長に案内された川端さんが、授業中の教室内に入って来られ、席の間を周りながら、ノートを覗きこみ、
「しっかり、お勉強していますね」と、声を掛けられました。
随行の皆さんは、教室の窓の外から覗き込んでいます。
間も無く、校長が私を迎えに来ました。教室の入り口で,
「失礼します」と、声を上げ、頭を下げ、教室に足を踏み入れようとしました。私の足がすくみます。
二重三重に立ち並ぶ随行員の皆さんは、いつも見慣れている、予防衣と丸キャップ、マスクを掛け、黒い長靴姿です。
 しかし、私服のワイシャツの袖口をまくりながら、川端さんから、手招きをされたのです。
教室への踏み入れを躊躇している私の背中を、校長から押され、川端さんと向き合うパイプ椅子に座らされました。
「ほうー、君が関口君か、いい作文でしたよ」と、いきなり、手を伸ばし、膝の上の私の両手を握ろうとしました。
私は、咄嗟に、自分の手を、背中に隠すように引きました。
川端さんは、悲しそうな表情をされ、自分の椅子を私の方に引き寄せ、私の両太ももを挟み込みながら、時折、つばきが顔にかかる程の近さで、色々な質問がなされ、短い言葉で、返事をしていました。
「関口君は、本を読むのは好きですか?」
「はい、大好きです」
今まで読んだ中で、好きな本を尋ねられ、いろいろな書名を口にしました。そして、
「君は、北條民雄の『いのちの初夜』は、読みましたか?」
「うーん・・・。読みましたが、むつかしくて、分からないところが、たくさんありました」
そう答えると、先生の表情が曇りました。
あっ、余計なことを答えたと思い、すぐに、
「でもねー、先生、北條民雄全集巻末に、先生と民雄のお手紙が載っているでしょう。その中の民雄の手紙で、分かるところがありました」
「ほう、ほう、そうですか、で、その手紙にはどのような事が、書かれていましたか?」
なぜか、私はその部分が、記憶に残っていたので、思い出しながら、口にしました。
「僕には、何よりも、生きるか死ぬか。この問題が大切だったのです。
文学するよりも根本問題だったのです。
生きる態度はその次からだったのです。
人間が信じられるならば堪えて行くことも出来ると思います。
人間を信ずるか、信じないか」
ギョロっと大きく見開いた目で、私を見つめていた川端さんの両目に、シャボン玉のように涙が膨らみ、ポロ、ポロと落ちました。
そして、私の両太ももをパンパンと何度も叩き、
「関口君、君は…君は…北條民雄の悲しさが分かっています。『いのちの初夜』を、しっかりと、読み込んでいます。関口君! 君ねー 自分の中に一杯蓄えなさい。そして、たくさん書きなさい!」
 ここで、少し北条民雄と「いのちの初夜」について説明します。
北條民雄(1914~1937)は、19歳でらいを発症し、東京の療養所に入所。「いのちの初夜」は22歳時の作品。23歳、腸結核で療養所内で死亡。当時、文藝春秋誌に「雪国」を連載し、文学界の寵児となっていた川端康成に、「最初の一夜」の原稿を送りつけ、川端康成推薦で「いのちの初夜」と改題され、昭和12年、文学界2月号に掲載され、2月号は増刷に増刷と、一躍、ベストセラーとなり、当時の文化人と称される日常会話で、「いのちの初夜」が話題になるほどで、昭和11年、文學界賞を授与されます。

園長が、川端さんの耳元で「先生、次の予定が」と、声を掛けました。
 川端さんは、もう一度、私の両手を握りしめながら、
「関口君、何か欲しいものがありますか?」と聞かれ、
私は、「本です」と、即答しました。
私の返事に大きく頷かれ、部屋を出て行かれました。
それから、3カ月後、木枠で荷造りされた荷物が、何箱も届きました。中には児童図書と大人の本がぎっしりと詰め込まれていました。
少年少女舎に図書室が作られ、大人向けの本は、園内の図書館に届けました。
私は、自由時間になると、送られた本を読みふけっていました。
本の中には、夢や冒険や人のやさしさが、いっぱい詰っていました。
2020年2月に放映された、NHKBSスペシャル『三島由紀夫×川端康成 運命の物語』の番組制作で、宮本亞門キャスターと一緒に、愛楽園に同行取材で訪れましたが、愛楽園交流会館には、今も、『川端康成文庫』の印が押された書籍が、収蔵されていました。少年の記憶は正解でした。
 私に与えられた本日の講演課題は、「戦争と人権」です。
この課題を語るには、沖縄がかつて、琉球国と呼ばれた歴史と、あの沖縄戦、そして、現在の沖縄が直面している問題に、触れなければなりません。

Ⅲ 交易国家琉球王国

(1)琉球国の先史概説

まず、琉球国の先史概略から、お話させて頂きます。
日本国の歴史区分で言えば、室町時代(足利義政)の1429年、450年間続く統一国家「琉球王国」が成立しました。
★北山城 怕尼芝(はにじ) 1401~1416 2代の王党南山城 汪英紫(おうえいじ) 1402~1416 大按司とも称します。

王国は耕作地が少なく、その上、小さな島々が寄り合った島国です。
そのため、国家存立の国家指針を、交易立国と定めました。
「交易」の成立条件は「平和・友好」が前提となります。
その相手国の中心を、当時のアジアの最大国家 明国との進貢交易・冊封関係を成立させます。
明国、そして、その後の清国との進貢・冊封関係を維持し、琉球国王は、新国王の継承ごとに、冊封使が来琉し、明・清皇帝から叙任を受けていました。
★冊封(さくほう・サッポウ)
交易は日本や朝鮮、南方アジアまでの広範囲に及びます。この莫大な交易利益を国家財政の基盤にします。
また、中国の科挙制度に採り入れ、門跡を問わず優秀な留学生を中国に送り、帰国後は、王国の役職に登用しました。
 このことで、琉球国の文化芸術の黎明期を迎えます。
その関係は密で、「冊封(さくほう)」関係は、明治時代最後の琉球王尚泰時代まで続き、ゆるやかな 明・清国の支配圏内に位置していました。
1592年、秀吉の朝鮮攻めの文禄の役が起こります。
秀吉の命令を受け継いだ島津藩の島津義久から、琉球国に軍役、兵糧米、名護屋城の築城労役を命じられますが、その命令を無視します。
その後、1600年、天下分け目と言われる関ケ原の闘いで、島津藩は、西軍に参陣、敗走します。その後、徳川幕府の下で辛うじて、藩の存続は許されます。
 秀吉の朝鮮出兵時、琉球藩への割当兵糧米を、島津藩が立て替え、命令に反したとの懲罰を理由に、1609年、家康の裁可を受け、3千人の薩摩兵で琉球国を攻め、琉球国を薩摩藩の支配下に置きます。
その結果、琉球国は、幕府と薩摩の実質的二重支配下に置かれます。
しかし、薩摩藩は、対外的には、琉球国を独立国家として存続させ、清国との進貢と さくほう関係の継続を黙認します。
その意図は、清国との莫大な交易利益を、琉球から収奪し、薩摩藩の財政に役立てます。

 (2)琉球処分と日本国への統合

1868年の明治維新後、明治4年、廃藩置県が断行されました。
明治政府は、この翌年の明治5年、例外的に琉球藩だけを設置します。この特例措置は、琉球藩と清国との関係が 未決着であり、清国に配慮した「一国二制度」となる 苦慮の政治選択をしたのです。
この積み残し難題を、打破する絶好な事件が台湾で起こりました。
明治7年、台湾に遭難 漂着した琉球藩宮古島の漁師54人を、台湾の原住民から殺害される事件が発生しました。
明治政府は、「わが領民が殺された」と、清国に抗議します。この抗議に対し、清国から「生蛮は化外の地、わが照管する所に非ず」と、清国政府の責任範囲でないと回答してきました。
ところが、外交交渉の最中、政府命令を無視した西郷従道(つぐみち)指揮の征討軍が台湾に出兵します(征台の役と牡丹社事件)。
イギリス、アメリカ公使から、この出兵に反対を表明されますが、
大久保利通を代表とする事後処理交渉によって、清国から、今回の台湾出兵を認め、犠牲者に見舞金を支払うことを条件に、
「日清両国 互換 条款」を調印し、台湾から撤兵します。
この台湾出兵は、不満士族たちのガス抜きの暴走でした。
この結果、琉球の日本帰属を、国際的に認めさせたことになります。
一方、国内では廃藩置県によって、録を失った士族たちの騒乱が頻発します。
明治9年、熊本の神風連の乱、山口の萩の乱、福岡の秋月の乱と相次ぎました。
明治10年、西郷隆盛を盟主とした「西南戦争」の鎮圧で、国内の騒乱問題は終結となります。ただし、「一国二制度」となる琉球藩問題は、積み残されたままでした。
明治政府は、当初、ゆるやかな日本国併合を意図し、明治12年、琉球藩に、警察、軍隊を引き連れた「処分官」を派遣します。
しかし、琉球藩内は、「大和国派」と「清国派」に分裂し、その対立抗争は、激しさを増すばかりで、収束する気配が見えません。
とうとう、明治政府は断を下します。
明治12年(1879)、強権発動で軍隊を派遣し、首里城の明け渡し、最後の琉球藩主 尚泰を東京へ拉致、「清国派」の官僚達は一掃されます。私の一族もその対象でした。
これで、琉球藩は消滅し、名実共に日本国の「沖縄県」が、誕生します。
これを「琉球処分」と称します。
明治政府は沖縄県に、以下の5項目の厳守を命じます。
・清国への進貢、慶賀使の派遣、冊封の禁止/・明治年号の使用/
・日本国刑法の使用/・藩政の改革、他県同様の位階職制の採用/
・10人の留学生を日本国に送る/

Ⅳ 宿 命 の 島

(1)沖縄戦

太平洋戦争末期 大本営は、昭和19年3月15日、アメリカ軍の本土上陸の最後の防波堤として沖縄に第32軍を配置しました。
その前年の 10/10 空襲によって沖縄の主要都市は壊滅します。
アメリカ軍の上陸に備え、第32軍の兵士とは別に、17歳~45歳の沖縄の男子22,000人~25,000人を招集し、兵士と同じ任務の「防衛隊」を組織します。
皆さんには良く知られている ひめゆり部隊は15歳~18歳の女子師範と高等女学校 学徒は、野戦病院の看護員として462人が動員され、その45%の190人が亡くなりました。 
15歳~19歳の男子中学校・師範学生は、鉄血勤皇隊の兵士として動員され、1,760人の51% 889人が戦死しました。
4月1日の アメリカ軍上陸3ヵ月間の戦死者は、沖縄県民 約94,000人 日本軍 94,136人 アメリカ軍12,281人と記録されています。
昭和20年6月23日 牛島司令官 長参謀長の自決によって、組織的沖縄戦は終わりました。
沖縄戦を生き延びた古老たちは、日本軍を「友軍」と呼びます。
これは32軍の一部兵士たちは、沖縄の民間人を守るどころか、食料の強奪、集団自決の強要、沖縄方言使用者や集落のリーダー達をスパイと疑い、虐殺されたことを 目撃しました。
同胞と信じた軍隊から受けた信じがたい無念の想いが、深い傷となり、その恨みと悲しみに対し、「日本軍」を「友軍」と称するのです。

(2)切り捨てられた27年・それから、そして、今

戦後の沖縄の位置は、1951年、サンフランシスコ講和条約第3条によって、日本国から切り離され、アメリカを施政権者とされます。
日本国本土では、独立と国際的地位を得て万歳の声を上げましたが、
沖縄では米軍の治外法権下で、基本的人権が 皆無の植民地支配が27年間続きます。
その間に、沖縄は朝鮮戦争とベトナム戦争の出撃基地となります。ベトナム国民は、沖縄を「悪魔の島」と呼びます。
 その理由は、ベトナム戦争は、沖縄が前線基地として機能することで、戦争の遂行が可能となったからです。
ベトナム戦争は、1964年の北爆開始から1975年の終結まで、
549,500人のアメリカ兵士が出兵し、戦死者58,220人を出し、アメリカは敗戦となる。
中継基地となった沖縄の歓楽街は、生きて帰還する保証のない米兵達がばらまくドルで、ベトナム景気に沸き立ちました。
 1972年の日本復帰後も、沖縄の米軍基地負担は相変わらずで、沖縄に過度の基地負担があるのは、これまでの日本復帰以前からの既得基地の延長であり、その上、地政学的な位置によると、正当化する意見があります。
しかし、アメリカの軍事専門家でさえ「地政学上の宿命論ではなく、日本国政府の人為的差別政策による」と、論評しています。
中谷元防衛大臣でさえ、過去、「沖縄の基地の負担分散はやろうと思えばできるが、他県の抵抗が大きい」とコメントしました。
 沖縄はやはり、本土防衛の防波堤であり、現在のアメリカ軍の対中防衛第1列島線は、奄美大島・沖縄・台湾・フィリピンまで、第2列島線を、日本本土・小笠原・グアム・インドネシアまで。アメリカはアジア戦略、特に、米中戦争勃発に備え、グアムにアンダーセン基地とプラーズ基地を急いで完成させました。
なぜ、アメリカ国防省の対中戦略は、主力部本体を、グアム基地駐留なのか? 
北京とグアム間は、約4000のKmです。中国の最新弾道ミサイルの射程飛行距離は4000Kmと言われており、グアムなら、迎撃体制は充分に間に合います。
第2次トランプ関税交渉で、わが国は、農産物の輸入拡大と航空機100機と、毎年、数千億円の防衛装備品の購入を受け入れたとの新聞報道があります。
もし、「台湾有事」で、米中戦争が起これば、ミサイルが飛び交います。沖縄の位置は、ミサイルへの防衛線としでは、余りに中国に近く、防御基地としては、不利な地政的位置にあり、沖縄防衛の主力戦力は、自衛隊であり、アメリカ軍ではありません。アメリカが、しきりに、わが国に「自国防衛力強化」を迫る真意はここにあります。
「台湾有事」という中国による軍事行動が、時を置かずに発生する場合を覗き、米中の経済・防衛問題の、お互いの国益と国内政治状況により、米中衝突回避され、現況状況が継続される条件下での私の推測では、5年~10年先のアメリカ軍の沖縄駐留は様変わりしているでしょう。第一防衛線のミサイル防衛部隊と最小限度の空軍と海軍のみ沖縄期に残留させ、空軍・海軍・海兵隊の主力部隊はグアムに撤収し、10数年後に完成後?辺野古基地は、米軍基地ではなく、自衛隊基地となるでしょう。
かつて、東と南シナ海は、交易船が行き交い、平和の海域でした。
今や、一触即発の騒擾の海と化しています。
今、沖縄を取り巻く状況は、台湾有事に備え、あの80年前の沖縄戦以上に、日本とアメリカ防衛の最前線となり、沖縄・奄美の島々が、ミサイル列島になりました。
 わが国の今年度の防衛予算は、GNP比1.8% 8兆5千億円で、駐留アメリカ軍への思いやり予算は、2,110億円で、歯止めがかかりません。
わが国も「台湾有事」に備え、南西地域への防衛強化シフトが検討され、沖縄自衛隊組織の第15旅団を、師団に昇格させ、トップも自衛隊 陸将が就任します。
皆さん 「沖縄」が、再び「戦争の防波堤」に切り捨てられ、悲惨な傷跡を残す、島々にしないでください。
沖縄県民が今、政府と国民に訴えているのは、防衛という名の下に進められている過度に集中する「米軍基地と自衛隊基地」公平なる負担なのです。
東御市の皆さんは、防災マップに従い、定期的に避難訓練をなさっていますが、沖縄では「台湾有事」に備えた避難計画が策定され、「戦争」を想定した避難訓練が行われています。
皆さん! 沖縄からの悲鳴に、耳をふさがないでください。

Ⅴ 駐留米軍と人間の尊厳

(1)駐琉米兵による女性の性被害

 戦地に送られた兵士によって、女性の性被害が相次ぎます。
人としての尊厳が打ち砕かれる最大の人権被害は女性の性被害です。
「戦地では、兵士による性暴力が横行し、排除できないのは、戦争の特性である」と、言われています。
あの太平洋戦争時、わが国の祖父たちも、アジア諸国で同様の犯罪を繰り返しました。
1944年3月、最後の防衛線の第32軍の配備と共に、沖縄各地に130カ所の従軍慰安所が作られ、ここで働かされた女性たちは、九州・沖縄の遊郭や飲食街、朝鮮人女性が送られてきました。これも女性の性被害の象徴です。
先日、今回の講演資料として、沖縄の友人女性から「基地・軍隊を許さない行動する女性」が発行した「沖縄・米兵による女性への性被害 1945-2021/12月 第13版」と「軍隊は女性を守らない アクティブミュージアム」刊と、最近の米兵による性暴力事件の新聞記事スクラップが送られてきました。
特に「沖縄・米兵による女性への性被害 第13版」には、時系列に、警察の勇気ある自己申告記録です。
1972年の日本復帰までの27年間の事件件数は664件、1972年から2021年までの事件発生は、118件と、アメリカ兵による性被害は歯止めが掛かっていません。
これらの報告書は、性被害のほんの一部記録です。ほとんどの被害者は口をつぐみ、そのトラウマを引きずりながら生きています。
ページをめくる手が震えます。まさに、戦争のために派遣された兵士たちの心からは、人間の倫理観は失われ、ケダモノと化していくおぞましさに、胸がつぶれる思いに襲われます。
日本の敗戦によって沖縄の女性たちには、更に新たな「性被害」という戦争に直面しています。
特に、米軍占領下の日本復帰前の27年間、米兵たちによる強姦被害が相次ぎました。基地外の現行犯は、沖縄県警が逮捕し、アメリカ憲兵隊に引き渡します。しかし、犯罪者がどのように裁かれ、どのような刑が執行されたか、その記録は一切なく、すべて不明と記されています。
特に「性被害事件」で、私の記憶に刻まれている衝撃的な事件は、

1955年の「6歳の由美子ちゃん事件」です。
高校生の姉が泣きながら、12歳の私に、事件報道の記事を読んでくれました。
6歳の少女は強姦後、殺害され、ゴミ捨て場に捨てられていました。   
新聞記事の少年の目撃証言に、由美子ちゃんが「お母さーん、おかぁさーん」と、泣き叫んでいたとの記事には、私も泣きながら聞いていました。
犯人は、軍法会議で死刑の判決を下されましたが、5年後の1960年、アイゼンハワ―大統領恩赦で刑期が5年減刑され、1977年、フォード大統領によって仮釈放され、刑務所を出所しています。
1972年の日本復帰後も、日米地位協定によって、基地外のアメリカ軍属の犯罪は、県警が逮捕後、アメリカ憲兵隊に引き渡され、裁判権は米軍側にしかなく、最近、ようやく、基地外での事件については、わが国の司法によって裁かれるようになりました。
2024/12月、16歳未満の少女が米兵に誘拐され、基地内で性的暴行を受けた。翌年も別の事件が発生し、両事件とも、被害者が申告し、犯人は逮捕、書類送検されていたのにも拘わらず、地元メディアの報道で、ようやく、半年後の5月28日、沖縄県に報告されました。
遅れた理由を「被害者のプライバシー保護のため」と釈明されましたが、事件報告が半年も隠された背景には、明らかに政治的選択がありました。
 それは、5/17日、始めてのアメリカ大使の「台湾有事」の前進基地、与那国島・石垣島へ公式訪問が控えており、また、6月17日の 沖縄県議会議員選挙への影響に配慮したからと推察されます。
2014年在日米軍 軍属関係犯罪の起訴率は11.8%で、約9割が不起訴です。
 2015年、国連の「女性・安全・安全保障(WPS)」に関する国連理事会 決議を履行する日本政府行動計画から、
「外国軍隊によるジェンダーに基づく暴力の予防と適切な処罰の確保」「被害者への個々の実情に応じた途切れない支援と補償へのアクセス」の2項目が、最終報告から削除されています。安全保障の名の下に駐留する米軍が、実際には沖縄の女性たちの安全を破壊しているのです。

(2)化学物質に汚染された沖縄

世界中にある化学物質の危険性に目覚めさせたのは、
アメリカ・ウェストバージニア州の農場主と弁護士でした。
この農場主は世界的巨大化学会社デュポンのお膝元で酪農を営んでいた。
1990年代、牧場の牛や飼い犬、森の鹿が次々と死ぬ不思議な現象に、原因は化学会社が製造する化学物質と疑い提訴した。
裁判の結果、その化学物質は、フッ素(F)と炭素(C)を組み合わせて誕生したPFOA(有機フッ素化合物)と判明したのです。
 原子爆弾製造には、ウラニウムの濃縮が必要で、その過程でパイプの腐食性が高い化学物質が発生し、配管が溶ける難題が生じた。
これを解決したのが、デュポンが開発した「テフロン」でした。 
1960年代、製造会社デュポンや3Mの動物実験で、PFOSに曝露した動物はすべて死ぬことを把握されており、1978年まで十分なデータを集積し、PFOAとPFOSは「毒物化学物質」と認識しながら、製造は継続されます。
しかし、3Mは、2000年、突然、PFOAの製造を中止します。
 その後、固いテフロンを乳化させることに成功し、塗布剤として、
汚れや水をはじく特性を活用し、生地や靴、自動車のカーペット、酸素を素早く抑える泡消火剤、電子基板の洗浄液など、広範囲に活用されるようになります。

皆様の耳目に残っているCMで、「焦げ付かないテフロン加工フライパン」も、この有害化学物質が塗布されているのです。
過去、沖縄では返還米軍基地のダイオキシン汚染が、問題なっていましたが、
2020年/4月、沖縄中南部の飲料水を供給している北谷浄水場の水源である比謝川から、綿菓子のような白い泡が空中に舞い上がり、住宅地の上空を埋め尽くす異様な状況が発生した。
事故から4日後、米軍はこの泡の正体と発生源を明らかしました。
その大量の泡は、嘉手納基地内の格納庫で、パーティに参加していた兵士が、地下貯蔵 泡消火剤機器を誤作動させ、ドラム缶715本相当分の泡消火剤が、川に流れ出したことが原因でした。
過去にも普天間飛行場内の泡消火剤ドラム缶70本分が誤って流失していたことも判明した。
北谷浄水場の水源の比謝川は、普天間飛行場、嘉手納飛行場の脇を流れる沖縄本島中部 最大の河川で、PFOSに汚染されていた。
北谷浄水場から給水供給を受けている自治体8市町村の45万人の住民の飲料水が汚染していたのである。(北谷町・宜野湾市・沖縄市・嘉手納町・中城村・北中城村・浦添市・那覇市) 
この後の調から、沖縄本島基地周辺の水質検査が行われ、至る所でPFOS汚染していた。
人間の体内ではPFOSの半減は5年を要し、95%を対外排出するまでには40年かかる。
沖縄県は、基地内の立ち入り検査を求めたが、米軍から地位協定を理由に拒否された。
このニュースが全国に伝わったことで、全国各地で水道水のPFOSとPFAS検査が始まった。
また、これまで原因不明とされていた、全国第1位、沖縄の
2500g以下低出生体児出生率の原因究明にも、手がかりが得られた。
 私の知人が、2025/4/27日のうるま市議会議員選挙で、政治経験なし、組織支なし、無所属で立候補した。立候補の決意は、「結婚後、2人の子宝に恵まれたが、2人とも低出生体児で、原因不明と言われた。その後。宮古島へ転勤となり、宮古島で恵まれた3人目の子供は。3,600gで出生した。私は自らの子どもの出生を通じて、このPFAS化学物質による飲料水問題の危険性を立候補理由にしたが、見事、当選したとの知らせがあった。
 PFASは飲料水から体内に蓄積し、母親の胎盤から胎児に移行する。その他の体内蓄積による
影響として
〇免疫力の低下 〇甲状腺、生殖ホルモン、腎臓、精巣、甲状腺がんの発症原因となり、肝機能、生殖機能にも障害:となる。
京都大学医学研究科小泉昭夫研究グループが、2019年、宜野湾市大山地区で住民の血液検査や行った結果、PFOSの血中濃度が全国平均の3・97倍ng/ml に汚染されていた。と
 2010年、PFOS含有泡消火剤は、わが国でも使用禁止となった。

●PFOS(ペルフルオロオクタンスルホン酸) PFAS(ペルフルオロアルキル化合物及びポリフルオロアルキキル化合物)
★PFOS(ペルフルオロオクタン酸)異なる種類の有機フッ素化合物の総称であるPFASの一種です。
★沖縄県米軍基地周辺PFAS調査(2024)
・普天間飛行場 1,600ng/ℓ /・嘉手納飛行場 1,400ng/ℓ
・北谷浄水場  212ng/ℓ

Ⅴ 最後のメッセージ

「私、あの沖縄戦時、母の背で生き延び、そして、たぐいまれなハンセン病をわずらい、強制隔離生活を経験しましてねー。と、隣近所の茶飲み話で、なんのわだかまりもなく、話せる日を待ち望みながら、これまで各地の講演会でハンセン病問題を訴えてきました。しかし、私の耳に届いているのは、同じ病に苦しんだ人や家族は、社会の偏見や差別を恐れ、口を閉ざしている事例が、未だに多いのです。
沖縄問題も同じです。多くの国民の沖縄のイメージは「蒼い海、青い空」の癒しの島のままです。あるいは、沖縄の過度の基地負担問題を知っていても、無関心の枠外に置き去りにしたままです。
 「戦争」と「人権」は、絶対に両立はしません。
皆さん、沖縄から目を離さないで。そして、見捨てないでください。沖縄の今は、間違いなく、未来の東御市の現実となるからです。
 ここにお集まりの皆様のほとんどは、太平洋戦争を、映画や書籍から得られたイメージの中でしか存在していないでしょう。
あなた達の祖父母たちの中には、あるいはあの戦争で命を失い、空襲で逃げ惑い、戦後、今のパレスチナガザと同じ、廃墟の中を生き延びた両親たちから、皆さんは命のリレーを授かったのです。
太平洋戦争の敗戦から80年、「戦争放棄」を国是とする平和の日本国で、皆さんは、今を生きています。
敗戦から80年の節目に、長野県世論調査協会は、
「憲法9条の改正は必要か」の是非を、19歳以上1500人に問い、749から回答を得ました。
「必要だ」と回答したのは、2016年調査時に比べ、12.8%減少し、47%でした。
「必要だ」と回答者した人々は、決して、自分が戦場に動員され、重火器を持ち、想定される敵と、立ち向かうことは想念していないであろう。
 平和の砦となっている「憲法第9条」の誓いが揺らぎ始めています。
 「台湾有事」の事態に、地政学的に最も近い、わが国は、アメリカ主導の下で、防衛という旗を掲げ、ミサイル防衛網を張り巡らし、前のめりになり始めています。
このままでは、再び、わが子や孫たちを、戦場に送ることになります。この道を絶対に許してはなりません。
「台湾有事・米中対立」が極限状態の中、逆に、わが国が、主導的に東アジア外交を発揮する絶好のチャンスではないかと、発言するのは理想論だろうか? でも、いざ、わが国も巻き込まれる戦争が起これば、ミサイルが飛び交い、特にわが国は、紛争地に隣接しているだけに、死傷者が累々となる状況は間違いない。沖縄の西の端与那国島から中国本土と距離は640Km、どのようなミサイル防御網でも不可能です。私は中国からの不法な要求には、毅然とした国家の存亡を掛けて立ち向かうべきだと思います。
その選択肢を ①国民の命の犠牲を払って立ち向かう。➁わが国の外交交渉の最大チャンスと見て、政治力に賭ける。
敗戦後のわが国の「外交交渉」は、これまで、ことごとく受け身で、毅然と国運を掛けた「外交交渉」の成功事例で、皆さんは、「沖縄の返還なくして日本国の戦後なし」と、国民に公言し、1969年の佐藤栄作総理大臣の沖縄返還交渉で「琉球列島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国都の間の協定」を締結し、27年ぶりに、平和裏に沖縄を返還させた佐藤栄作総理大臣の存在があるではないか、その功績で1974年、ノーベル平和賞を授与されているではないかと、反論されるでしょう。しかし、その後、この締結には、後日明らかにされ「密約」が存在していたことが明らかにされた。
交渉事には、表にできないことがあるのは通例だと、外交官たちは語る。
 しかし、この「密約」が、今の沖縄の現況を縛っているのである。
私が評価する外交交渉では、田中角栄首相が訪中し締結した1972年の「日中国交正常化交渉」の立ち姿しか思いつかない。
今こそ、「火中に栗を拾う」覚悟で、「外交交渉」という「盾」を、鮮明に、より高く掲げ、「軍備拡大競争」の鉾を収め、この国の未来の在り方を、賭けるチャンスだと、私は思います。

結びに

講演の結びに、シベリアで獄死したブルーノ・ヤセンスキーの言葉を贈ります。(ブルーノ・ヤセンスキー(1901-?『無関心の人びとの共謀』)

敵を恐れることはない 敵はせいぜい君を殺すだけだ
 友を恐れることはない 友はせいぜい君を裏切るだけだ
  無関心の人びとを恐れよ 彼らは殺しも裏切りもしない
   だが、無関心の人びとの沈黙の同意があればこそ
    地球上には裏切りと殺戮(さつりく)が存在するのだ。
82歳を迎えた私は、体力と知力が及ぶ限り、「戦争と人権」問題を語り続けます。
 この国の未来が、「人と人が、寄り添い、再び戦争をしない国」に、したいとの、願いを込めたバトンを、皆様に託します。
長時間にわたるお付き合いありがとうございました。