「レイテ分校」2つの謎
インターネットがなかった時代のこと。
「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞を1993年に受賞した「ネパールの赤ひげ」岩村昇医師がフィリピンで人材育成にあたっていた。
紹介を頂いた私は1980年代半ばから90年代初頭、日米の激戦地だったレイテ島を数回訪問した。
掲げた図は私が88年、京都大学公衆衛生学教室に報告したフィリピン大学医学部レイテ分校の特徴あるカリキュラムである。
1976年の開学以来半世紀。
分校は離島や山地の農民や先住民の若者を引き受け、助産師、保健師そして医師を輩出し、「フィリピンの自治医大」と呼ばれている。
卒業した医師の最重要任務は帝王切開である。
毎年数十人が入学し、女性が多い。
短期研修を経て助産師になって故郷に戻り、地域貢献。
民衆の支持と期待を集めた者が分校に戻り、保健師をめざす。
再度故郷に貢献し、さらに選ばれし者が入学から10年後、年間数名が医師資格を取得する。
日本の篤志家が絶対安全な送金ルートで、数百万円規模の奨学資金を数個準備。
元金に手をつけず、年利12%の利息を毎年数十人の学生たちに支給し続けた。
フィリピン国立大学(日本の東大医学部にあたる)はマニラ本校に加え、レイテ島ほか離島数箇所に分校を有する。
分校卒業生の9割が故郷の島や山に戻り、医療技術者として働き続ける。
私は20年間ほど、分校同窓会にお願いし、日本の医学生、看護学生計150名ほどのプライマリヘルスケア(PHC)の実習先として、レイテ分校で合宿研修をした。
その分校には2つの謎があった。
なぜ彼らは「頭脳流出」に抗し、故郷に戻って故郷のために働くのだろう。
なぜ訪問する日本の若者が、利得にもならないというのに大歓迎を受けるのだろう。
皆様はどうお感じになるだろうか?
開学にあたり佐久総合病院の若月俊一医師の「農村医大構想」から示唆を得たという
感謝
からか2007年、日本大使館の協賛で分校は「若月・岩村コーナー」を開設した。
13年の巨大台風で校舎は壊滅したが、15年佐久総合病院の統括院長が訪問してコーナーを再建し、今も毎年佐久総合病院の研修医が合宿している。
2011年春、私が東宮御所にお招きうけた際、現陛下も「侍従から詳細をきいています」
と、日本からの「有効な人材育成支援」と若手医療者の訪問研修に関心をお持ちだった。
(佐久病院 医師色平哲郎氏提供)