ハンセン病問題の当事者となって学んだこと(深町将司)
松本市立波田中学校 深町将司先生の文章を、ご本人の了解を得て掲載させていただきます。
Ⅰ. 人権教育との出会い
私がハンセン病問題と出会ったのは、初任校である上田市立第六中学校でのことである。
今でもはっきりと覚えているが、学年内での私の仕事内容を先輩教員二人が話し合っていた。「深町になにをやらせるか~」「そうだ!人権教育だ!これは教員としてきっとこれからの財産になるから人権教育を任せよう!」と、私の学年内での仕事分担が人権教育になった。それまで私は、人権教育について大学で学んだ記憶もなく「???」ばかりだった。「何すればいいですか?」と不安でいた私に、二人は「やりがいがあるぞ~」と言ってくれた。今思うとこの先輩教員二人との出会いが、教師として人権教育と向き合う私の基礎になった。
Ⅱ.伊波敏男さんとの出会い
作家であり、ハンセン病回復者である伊波敏男さんが、学校のすぐ近くにいらっしゃるという、あんなに恵まれた環境はなかったと今だから思うが、その当時の私は、「近くにハンセン病に詳しい人がいる」程度にしか思っていなかった。「それでは生徒たちの前に立てないぞ」と先輩の先生に言われて、知識だけは猛勉強した。そして、伊波敏男さんの自宅に連れて行っていただいた。まず目に飛び込んだのは伊波さんの指先だった。恥ずかしながら、最初はその手がものすごく気になったのを今でも覚えている。ただ、伊波さんの話を聞くうちにすぐに引き込まれた。社会復帰して結婚したが、差別のために家族が引き裂かれたという話は、私はちょうど第二子が生まれたばかりだったこともあり、感情がこみあげて聞くことが辛くて、辛くて仕方がなかった。そして、伊波さんの優しい語り口と、時より見せてくれる笑顔に、不思議な感情にもなった。話の内容は重いのに、心にすぅーっと言葉がしみ込んできた。伊波さんの苦難を乗り越える逞しさと、人との出会いを大切にする生き方に感動しながら、気がつくと、2時間半ずっと話を聞いていた。その後も何度もお邪魔させていただいた。私にとって間違いなく一生忘れることのできない出会いだ。生徒たちと早く伊波さんとの学習を進めていきたいと思った。
Ⅲ.生徒とともに学習スタート
すでに学習の道筋は、先輩教員がつくり上げてあった。大まかな流れは、「NHK 探検バクモン ハンセン病って知っていますか?」⇒「SBC隔離の果てに ハンセン病元患者 最後のメッセージ」⇒「NHK にんげんドキュメント 津軽・故郷(ふるさと)の光の中へ」⇒「琉球朝日放送 にんげんドキュメント 花に逢はん 人としての尊厳を求めて」⇒「伊波敏男さんに来ていただき講演会」⇒「熊本 ハンセン病元患者のホテル宿泊拒否問題」⇒「学年でのパネルディスカッション」というものである。学習の初めでは「なぜ差別するのか」「同じ人間なのにおかしい」と言っていた生徒たちだったが、「津軽・故郷の光の中へ」に登場する桜井哲夫さんの身体に残る後遺症を見た時に、「今まで差別しないと思っていたけど、正直自信がなくなってしまった。」という感想がでてきた。しかし、伊波さんとの出会いや宿泊拒否事件を考え合う中で、差別するかもしれない自分の内面を真剣にみつめ、差別しない人間になりたいと考えていく、生徒の心の変化を確かに感じることができた。担任がのめり込んでいくのに応えるように様々な知識を身につけ、一緒に意見を交わすことができたことが嬉しかった。ある生徒の作文には、「人に伝えていくことで、無関心という差別と偏見のもとをなくす。‥まずは自分から伝えていきたい。」と綴られていた。
Ⅳ.衝撃を受けた妻の反対
生徒とのハンセン病学習に手ごたえを感じていた私は、まず自分が主体的に行動する生き方を始めたいという気持ちでいた。ちょうどそのころ出産を終えた妻が1歳の息子と生後二か月の息子を連れて新潟から帰ってくることになった。私は、息子を伊波さんに合わせたいと思った。今はわからなくても、後で伊波敏男さんという素晴らしい人に会ったことがあるんだよと伝えてあげたかった。そして、差別や偏見の問題に心を寄せることができる人に息子たちが成長してくれることを願った。私は、帰ってくる日程を調整していた妻に電話でその旨を伝えた。伊波さんの家に私が何度も行っていることや、生徒と人権教育を進めていることは電話で話していたため、もちろんすんなりと話は進むと思っていた。ところが、妻は「それは行かなきゃダメなの?」と言ってきた。最初は「相手の家に行くのは迷惑がかかる」とか「子どもたちが夜出かけるのが心配」と言っていたが、だんだん話していくうちに「ハンセン病だった人の家に行きたくない」ということだと分かった。その時は「こんなことがあるのか」との思いしかなかった。押さえきれない怒りがこみあげてくると同時に、「これが差別か」と思った。とたんに今まで必死に学習を進めてきたことが心から流れ出て行ってしまうような脱力感が襲ってきた。
Ⅴ.生徒に気づかせてもらう
「私もインターネットで調べた。乳幼児の時期に感染の可能性が高いと書いてある。」妻はそう言ってきた。明らかに長い説明の一部だけを切り取った間違った情報である。私にとっては今までの学習の積み重ねを否定されたようにも感じた。「自分が差別していることに気が付いていないのか。」と言い返した。頭の中には、伊波さんの息子の入園を拒否した保護者たちの話を思い出し、怒りと同時に言葉に言い表せない、焦りや不安や嫌悪感が入り混じったような感情になった。伊波さんには言えないと思った。自分の妻が差別しているなんて言えない。どうしよう、どうしようと頭を抱えていた。誰にも話せないとさえ思った。そんな自分を救ってくれたのが毎日顔を合わせる生徒たちだった。自分でもわからないが、朝の会の時にその話を生徒に投げかけてみた。怒りの感情が強かった私は、一緒に学習した生徒なら、自分の気持ちを分かってくれると思っていた。しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。「しょうがないよ、知らないんだから」そう言われたときにハッとした。確かに自分たちは学習してきたからわかることだが、私の妻にとってはいきなりのことだったに違いない。知識もなく、頼れるのはインターネットの情報のみ。これでは確かに不安な気持ちになると気づかされた。
Ⅵ.初めて人権問題の当事者となった
少し冷静になった私は、電話で、生徒たちと学習した内容をもう一度、妻に伝えてみた。生徒に言われたことも伝えてみた。それと同時に、どこに不安があるのか、何が心配なのかを丁寧に聞くことにした。そこで、怒りのまま口論していた時には気づくことのできなかった「母親としての思い」と向き合うことになった。間違った知識によってではあるが、母親として我が子を守りたい気持ちが何より強いことが分かった。私は、「差別している方が悪い」という気持ちだけが先行してしまっていた。自分が努力すべきことは、妻に対して、差別する人間は悪いと責めるのでなく、差別をしない人になってもらうことだったのだ。
差別や偏見を乗り越えていくプロセスで重要なことは、まずはきちんと相手の意見を聞き、対話をすることだと妻には教えられた。妻の思いをよく聞いて解きほぐすことをせずに、自分の正しさだけを押し付けていたら、妻はきっと心の底から納得はしていなかったと思う。
電話のやりとりで、徐々に妻も話を聞いてくれるようになり、「行ってみようかな」と話してくれた。新潟への里帰り出産から帰ってきて、初めてのお出かけは伊波さんの家になった。妻も、私も、もちろん息子たちも伊波さんの家で楽しく過ごした。伊波さんに抱かれている生まれたばかりの息子を見て、何とも言えない嬉しさがこみあげてきた。家に帰ってから、妻に「ありがとう。」と言われた。いつかこの時の出来事を、妻と一緒に息子たちに話してやりたい。
伊波さんにはとても話せないと思っていたことだったが、しばらくして、意を決して、あったことを伝えた。いつものような優しい口調で「それはいい経験をしたね」と言ってくださった。
生徒にも話した。笑顔で「よかったですね」と言ってくれた。まさに生徒から学ぶということを体験することができた。
Ⅶ.その後のこと
その後の妻は、テレビなどでハンセン病問題についてやっていると、私に教えてくれるようになった。私が気づかないところで人権問題の記事やニュースがあると「こんなのやってたよ」と言ってくれる。本当にありがたい。
私が担任していた六中の生徒たちは、ちょうどコロナウイルスで一斉休校になった時に高校受験を控えていた。情報を冷静に判断し、受験勉強と感染対策を両立していた。卒業後にも交流は続いている。ある生徒の姿で印象に残っていることは、コロナウイルスに対して、国の政策などよく調べていくことが大切だ、と考えていたことである。差別のあらわれ方についても「コロナのことってハンセン病のときと似ていますね」と。伊波さんから教わった「世の中で起こっている様々な問題に無関心にならず、まずは目を向けること」ができていると感じた。この考え方をこれからの人生できっと活かしていってくれると思うと本当に嬉しい。
そして、伊波敏男さんとの出会いを通して、ハンセン病問題を、生徒、家族と共に学べたことは私の一生の財産だ。